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いっぽんにほん、細い足
ステステステ、と歩きます
今日もあの人のところへ向かいます


ぽかぽかした秋晴れの日でした
裸足で歩くコンクリートの道は温かで、ぱさぱさの砂とお日様の匂いがしました

「あくびが でちゃう。だんなもきっと お昼寝して るな」

彼はあの人の名前を知りません
「だんな」と呼べばそれで十分だったからです
男も女も、若いのも年寄りも、自分に施しを与えてくれる人のことはみんな「だんな」と呼びました
名前は知らないけど、ご飯をくれる人のことはちゃんと覚えていました

あの人の家の前に着きました
久しぶりだけど、いつもの家です
玄関には表札があるけれど、彼にはそれが読めませんでした

「だんな もしもし こんにちは。おひさしゅう ごきげん うるわしゅう です」

ぽんぽんと戸を叩いて、あの人の返事を待ちました
聞き耳を立てて、あの人の足音を待ちました

けれど、しいんとしています

「……あれ いないのかな」

彼は首をかしげて、裏庭に回ってみようと思いました
そろりと裏庭に入っても、そこには誰も居ません
裏の窓から家の中を覗いても、いつもと変わらぬ位置にあるテーブルやたんすは見えましたが、あの人の姿は見えませんでした

「おでかけ かあ」

彼は隅に生えていたぺんぺん草をちょんちょんと小突いて、庭をぼんやり見渡しました
名前の知らない花と雑草、それにススキが生えています
もう少し手入れが出来ればいいんだけれど、とあの人が言っていたことを思い出しました

ひゅうんと、一陣の風が吹きました
晴れてはいても、風はやっぱり冷たいです

「秋 だなー……」

そううっすら呟いて、彼はあの人の家を後にしました



いちにち、ふつか、その後に
ステステステ、と歩きます
今日は会えるかな、どうだろう


その日の夕暮れは雨でした
近くまで来たから、折角だから寄っていこう
そんな軽い気持ちで向かったはいいものの、途中からぽつ、ぽつ、と雨が降り出したのです

「そして しまいには こんなありさま……」

確かに空気は湿った匂いだったけれど、こんなに早く降り出すなんて
ざあざあ降りの中をヒイヒイ走って、あの人の家の屋根の下になんとか逃げ込みました
頭を垂れると、ぽたぽたと雫が垂れました
まったくやんなっちゃう、と手で顔を拭きました

そしてぽんぽんとあの人の家の戸を叩いて「だんな」と呼びかけました

「だんなだんな あけてください。ずぶ濡れなんです さむいです」

しばらく待って、あれと思って、今度はとんとんとんとんと強く戸を叩きました

「だんな お夕飯どきですよ だんな あけてあけて」

しばらく待ってみましたが、返事はありません

「えー! 居ないの! もー!!」

扉にステンともたれかかって、げっそりした顔でため息をつきました
ここに来るまでの疲れが一気に押し寄せて、ぐうの音も出ません
裏庭にも回ってみましたが、やっぱり誰も居なくて、窓からは薄暗い部屋に前と同じ位置にあるテーブルとたんすが見えました

「骨折りぞんの くたびれもうけ じゃん」

文句を垂れて縁側の横の石畳に寝転がりました
取り敢えず今は、雨が止むまでここに居よう
待っていれば、だんなが帰ってくるかもしれないし……
そんなことを考えながら体を丸めて目を閉じました


雀の串焼きの夢から覚めると、ちゅんちゅんという雀の声と眩しい朝日がありました
「おおっ串焼きがとんでる」と彼は馬鹿なことを言ってよだれを垂らしました
そして電線に止まる雀たちを見ながら、ふと眠る前のことを思い出しました
雨が止むまでの間だけ休むつもりだったけれど、朝まで寝入ってしまったのか
……でも、家の中はずっと静かじゃないか

彼はうーんと首を傾げて、それから自分がしばらく何も食べていないことに気付きました

「おなかが すいてるから うまく考えられ ないんだ」

その時、わん、と犬の鳴き声がしました
彼はびくりとして辺りを見回し、そういえば隣の家は犬を飼っているんだっけ、と思い出しました
垣根の隙間から隣の家の庭を覗くと、その家のおばさんと、彼女にじゃれつく柴犬がいました
どうやらちょうど散歩から帰ってきたところのようです

おばさんは柴犬の頭を撫でて、えさ入れにごはんを盛りました
彼は何も言わないで、柴犬の嬉しそうな顔をじっと見ていました

「ワン公が。いいもん 食ってんじゃ ねえか」

その言葉が聞こえたのか、柴犬が彼に気付きワンワンと吠え立てました
おばさんも彼に気付いたようで、「あら」と邪険な顔で彼を見ました

彼は「う」と小さく呻いて、そそくさとその場を立ち去りました



いちにいさん、何日経った?
毎日行ったり来たりしました
たぶん、何となく、分かってる
あの家には誰もいない


それから何度かあの人の家を訪れました
あまり期待しないで行きました
結果は勿論、思ったとおりでした
彼にはあの人はもうこの家に帰ってこないだろうと思っていました
こういう事は初めてではなかったので、彼は慣れっこだったのです

彼は色々な人に出会って、色々な人たちと別れました
良いことも悪いこともされたし、しっかり覚えていることもさっぱり忘れていることもあります
彼にお別れを言ってくれた人もいれば、いきなり追い出してそれっきりの人もいました
汚い身なりの彼を馬鹿にしていじめた人もいれば、彼のために泣いてくれた人もいました

彼は今日も扉の前に立って、読めない表札をじっと見上げていました

「オイお前、図体のでかい奴。最近ずっと見るけど、その家に何か用なのかい」

その声に振り向くと、目つきの悪い虎猫がこちらを睨んでいました
首輪をしているので、きっと近所で飼われている猫なのでしょう

「いやあね さいきん この家のにんげんを 見ないもんだから どうしたの かなって」
「餌でもせびりに来てんのかい」
「そうでやんす。あなたこの家のひと ごぞんじない ですか」
「知らねえな。どうせ引っ越したか死んだか何かだろ」
「そうですよ ねえ」

そこまで話して、虎猫は後ろ足で首を掻いてから言葉を続けました

「オウお前、見たところ食ってなさそうじゃねえか。俺んちに来れば少しは分けてやるぞ」
「ほんと ですか」
「俺ぁ最近胃が悪いんだ。でも餌を残すとウチのアレがよ、飼い主がよ、悲しい顔するからな」
「ははあ なるほど。じゃあこんど 頂戴に あがります」

彼はぺこりと頭を下げました
虎猫はオウ、だかアア、だか言って、のしのしと歩いていきました



その日は晴れでも雨でもない、ぼんやりしたどっちつかずの湿った天気でした
彼はいつぞやの虎猫のところに行く前に、あの人の家に寄ることにしました

あの人の家の表札が、少し汚れているような気がします
あの人の家の裏庭は、雑草が少し増えたような気がします
枯れかけのススキが途中で折れていて、まるでお辞儀をしているようでした

裏庭の窓から家の中を覗いても、やっぱりずっと同じ位置にあるテーブルとたんすが見えるだけでした

「……そうですよ ねえ」

彼はしんみりした顔で窓から離れました
分かってはいるけれど、分かってはいるけれど……

「その家の方はもう居ません。お葬式を挙げているのを見ました」

声のする方を見ると、それは隣の家の柴犬で、彼はヒーと声を上げて尻餅をつきました

「もしかして犬がお嫌いですか。ごめんなさい、でもあなたを噛むつもりはありません」
「あわ、あわわわわ」
「こちらに来てください。小さい声で話さないと。この家の主人は猫が嫌いなんで、主人に見つかったら僕はあなたに吠えなければいけません」
「ヤ、ヤダア」

彼は腰を抜かしたまま後ずさりしました

「あっしはそーやってだまされて 噛まれたことが三回あるんです! さんかい!!」
「僕はあなたを騙そうだなんて思ってません。ただ何も知らないあなたが可哀相で……。それにこの家の方は、僕の頭を撫でてくれる優しい人でしたし」

彼はあの人に撫でて貰ったことをちょっとだけ思い出しました
自分は汚いから撫でない方がいいと言ったのに、あの人は自分のことをよく撫でようとしてたなあ……
そして犬があまりにも悲しそうな顔をするので、彼はばつが悪くなってしまいました

「い、犬に同情される すじあいなんか ありませんよ。あっしのことなんか どうも思って ないんでしょ かいぬしの方が だいじでしょ」
「それはそうですけど……」と犬は困った顔をしました

その時、隣の家から「またあの汚い黒猫がいる!」というおばさんの声が聞こえました
その瞬間、柴犬はワンワン、ガウガウと激しく吠え始めました

「にゃあにゃあ騒がしいと思ったら!あっち行きな!だから隣には野良猫に餌やるのはやめろって何度も言ったのに!」

おばさんは窓から身を乗り出して、黒猫に向かってしっしと手をやりました
黒猫はおばさんをじっと見て、それから何も言わずたたっと一目散に走り去りました


走っている間中、彼の頭の中ではおばさんの言葉がずっとぐるぐるしていました



「……とまあ そんなことが ありまして」
「そうなの、そうなの。それでだんなさんは結局どうしちゃったの」
「しりません その家 もう行ってないんで」
「行ってないの?どうして行かないの?」

彼の話を聞くのは木の枝に止まる雀です
小首を傾げながら、忙しそうに周りをキョロキョロしながら、勿論彼の鋭い爪に気を付けながらお話に付き合っています

「だって となりの家の人間に これ以上 だんなが悪く おもわれたら いや でしょ」
「そうなの?よく分からないわ、よく分からないわ」
「ふへへ とりあたま め」

彼はそう言い捨てて、雀を捕まえようと手を振りかざしました
雀はそれをお見通しで、爪に襲われる前に枝からひらりと飛び立ちました

「おばかさん、おばかさん。どんくさいあなたのご飯になんかなりはしないわ」

高い空から聞こえる勝ち誇った声に、彼はちっと舌打ちをしました
それから雀の飛び去った空を見つめて、あの人のことを思い出しました


「さあ、だんなは どこに 行っちゃった んでしょうねー」

あの人は、何も言わずに去っていくほど冷たい人だっただろうか
それとも、柴犬の言うことは本当で、あの人は死んでしまったのだろうか
けれどあの人が死んでしまうなんて、なんだか想像が出来ない
ずっと、ずうっとご飯をくれると思っていた

いや、きっと、冷たい人だったんだ
それでいい、その方がずっといい
死んでしまうよりずっといい
彼は自分に言い聞かせるようにして、そう思うことにしました

「まあ 生きてても 死んでても いつかまたどこかで 会えますよ ね」

空を流れる雲が、あの人がいつかくれたご飯の形に見えました


いちにいさん、よんほんの足
ステステステ、と歩きます
今日も充て無くどこへやら

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Webアンソロジー企画『うかはか』投稿作品
ゴースト:猫化け/野良猫
執筆者:はし